解釈しないということ

ゴーダマ・ブッダ(釈迦)がたどり着いた真理(諦)は、一般的に以下の4つとされています。

苦諦:人生は苦である

集諦:苦には原因がある

滅諦:苦を滅すれば、心の安らぎの境地(涅槃)に達する

道諦:苦を滅するための具体的な方法がある

苦は、人生を思い通りにしたいと欲することから生まれ、仏教では8つ(生老病死離憎望飽=四苦八苦)に分類します。


では、なぜ人は人生を思い通りにしたいと欲するのでしょうか?

あくまで僕のイメージですが、思い通りにいったほうが、幸せで楽しそう、だから自己肯定感を上げよう。

でも、野球のイチローさんがおっしゃられるように、世界と私の摩擦は少ないと感じる姿勢よりも、「自分に疑問符をつける」、自分の行動が世界にどのような影響を与えているかを常に振り返り、より良くあろうとする姿勢のほうが、大事だと感じています。




別の例で言うと、「夢をかなえるゾウ」にもありましたが、例えば、はじめてハイキングに出かける人が、天気予報が晴れだったので、傘を持たずに出かけ、実際は雨が降ってしまった。

この場合、運の悪さを嘆くのではなく、「天気予報通りにしておけば問題ない」という世界で生きてきた自分を、「山の天気は変わりやすい」という世界の法則に合わせる。

そこに都合の良い解釈は存在しません。


少し話が変わりますが、僕は、去年の秋ぐらいに、急に自分が愛で満たされた感覚を持ったんです。自分が愛で満たされ、愛をベースに他者とコミュニケーションできるようになった感覚。

愛って、存在をそのまま認めることなので、ここにも解釈は存在しないですよね。

ただ存在と正対し、世界を味わうというのかな。

ありがたいことに、天河神社を訪れてから調子も良いので、今年はいろんな体験をしたいです。